シコウノラボ#1「疑問の共有のすゝめ」

シコウノラボ
動画版シコウノラボ#1「疑問の共有のすゝめ」
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はじめに

 このブログサイト、『シコウノラボ』は、動画と連動した「読者/視聴者巻き込み型思考実験」を目的としています。簡単に言うと、「みんなでいろんなこと考えていこうぜ!」ってことです。
 最初のうちは「重たいな」「難しいな」と思うかもしれませんが、少しずつ「考えること」が楽しくなってもらえれば幸いです。

 ブログ記事では、動画でお話しした内容を元に内容を掘り下げたり、補足説明をすることによってより「思考」を深め、広げていきます。そうして僕が思考を展開することによって、皆さんも独自に思考を展開していただければ幸いです。簡単に言うと、「僕はこう思うけどあなたはどう思う?」ってことです。

 僕の思考展開自体はそれが答えだ!というものではありませんので「へー、そんな考え方もあるのか」「ここはこうなんじゃない?」「なるほど、それは納得」など、好きなように捉えてもらって構いません。

 基本的に動画版、ブログ版、どちらを先に見ていただいても相互にわかるような形になっていますが、動画を先にご覧いただいた方が楽しめるかもしれません。

 第一回となる今回は「疑問の共有のすゝめ」と題して「匿名性」のお話しから最近のYouTube動画の傾向、なぜ『シコウノラボ』を始めたのか、の最初の一歩を、私、進藤キーチと鈴木Dが対談形式でお話ししています。

 動画では概要欄に記載されているキャプションが目次の役割を果たしていますのでそれに合わせてお読みいただくのもおすすめです。

 ではさっそく、今回の思考実験を始めていきましょう。

【匿名性について】〜隠すべきものと隠すべきでないもの〜

 対談ではまず、鈴木Dの呼び方についての話題からスタートしました。

 彼と僕とはおよそ8年超の付き合いになります。最近まではお互いを芸名、ハンドルネームで呼び合っていたのですが、徐々に彼に音響のお仕事を依頼したり、アシスタントを依頼することも多くなってきました。
 そして、この動画のディレクター兼インタビュアーを引き受けてもらうにあたり、彼のことを動画内でハンドルネーム呼びすることに違和感を感じたのです。

 そんなわけで彼の呼称は「鈴木さん」となりました。

 名前を出す、と言うことはそこに責任が生まれると言うことです(芸名、及びペンネームを使用している僕は、すでにその名前で「責任」を追っていることになります)。
 動画で顔を出しながら発信するに当たって、僕は顔と芸名を出す。そして彼は名前を使う。それにより少しなりとも「発信する緊張感」が生まれると考えたのです。

 職場内で発言したり、友達同士でLINEをしたり、そういった場合は「発信元の身元」がわかっているのでそこにある程度の責任が生まれます。
 逆にSNSその他でハンドルネームや本名でないアカウント名などを使って発信することは、基本的に「匿名性」を帯びているわけです。

 匿名性、それは簡単に言うと個人の身柄を保証し、個人が責任を追うことから保護するためのものです。
   参考リンク:ミエツーリンクス用語集「匿名性」 コトバンク「匿名性」

 昨今、この「匿名性」と言うものの扱いが「変わっているな」と思ったのが、この話題の始まりです。

 「匿名性」が必要な状況とは一体何でしょうか。

・身元、発信元がわかってしまうと社会的に不利になる要素がある。
   =圧力、ハラスメント、解雇の理由にされる、など。
・ポジティブな意味で発信した内容が自分だと悟らせたくない。
   =足長おじさん的な行為、誰かを救うような行為、良い行いを広める発言など。

 動画では「幼名(ようみょう、ようめい、おさなな)」と言う風習が話題に上がりました。

古来両親以外の特定者に依頼して名をつけてもらい,その庇護をたのむ慣習があった。命名の時期としては幼名の場合と,成人名の場合とがあった。幼名の名付親には2通りあり,第1は拾い親,養い親の慣習によるもので,虚弱な子も丈夫に育つよう,また前に幼児を死なせた後に生まれた子や親の厄年に生まれた子などの無事成長を願い,しかるべき人に依頼してある場合には形式的にいったん捨てた子を拾って名を付けてもらったりした。
 参考リンク:コトバンク「幼名」ページ内「世界大百科事典内の幼名の言及」の「名付け親」に関する記述

kotobank.jp/word/幼名-452169(新しいタブで開く)

 この他、諸外国でも真実の名を使わないことで呪いの対象になることを防ぐ意味や、真実の名を知ることが支配権を有する意味になったりと、「本名ではない名前を使う」と言うことは自分や子供を守る意味合いがあったようです。

 昨今、SNSで誰でも匿名で不特定多数の見える場所に自由に発言できるようになりました。上記の状況ならば適切だと思うのですが、果たして現在その用途で使われているでしょうか?

 最近、誰かが何かを発信した時、それを見てよく吟味せずに印象、感情、のみで攻撃したり褒めちぎったりする方が多いように感じます。そして、その後大抵、議論は議論でなく喧嘩の様相を呈していきます。

 そこで独自の分析ではありますが、これは「最初に強く否定/肯定したが故にそれを撤回することを恥だと感じた、もしくは負けだと感じてどうにかして正当化しようとしている」だけなのではないかと思ったのです。

 日々腹の立つことはあるかと思います。もちろん、正当に怒っていいこともあるはずです。が、もう一度、「怒る」「賛美する」前に1クッション置いて相手の状況を想像してみたり、ただの自分のストレス発散行為になっていないか確認をした方が、生きやすい世の中になるような気がします。

 相手の行動原理は相手にしかわかりません。決めつけて糾弾することで、相手も自分も不快になる。「不快」を増やしていることになります。そりゃ生きづらい世の中になりますよね……。

 感情や本能だけで生きていくならそれは野生動物と変わりありません。せっかく人間にはイマジネーションや言語があるのですから、それを有効に使うべきだと感じるわけです(もちろん、話しても通じない人はいるのでその場合はその場から離れるか、しかるべき機関を頼ってください)。

 どちらにせよ、無意識に「相手を攻撃しながら自分は守られてしかるべきだ」と言う行動原理になってしまっている部分は否めないはずです(僕も含みます)。完璧ではないにしろ、少しずつ意識していかなければならない問題だと感じています。

 自分が守られることと、相手を安全地帯から攻撃できること、は本質的には違うはずです。

「この発言、発信は果たして匿名で行うべきことなのか、自分を正当化するためのものではないか」

 急激にインターネットやSNSが普及した昨今、今一度「匿名性」、「人間的コミュニケーション」のあり方を問う時期がきているのではないでしょうか。

【疑問の共有】〜たどりつかない話は哲学の素〜

 続いて対談では「YouTubeの動画」の話になりました。

 昨今のYouTubeで人気なのは「ゲーム実況系」「食べ物系(作る系、大食い系など)」「音楽系(カヴァー、演奏してみたなど)」「○○やってみた系」「都市伝説・怪談系」「クイズ・学問系」「芸能人」「大手YouTuber」などが主流でしょう。

 総じて言えることは、「基本的に全て受動的に与えられた情報を見て楽しい」
 簡単に言うと「何も考えずに見ていられる・楽しい」ということです(このこと自体を否定する意図はありません)。

 その中でも対談で特に話題にあがったのはメンタリストDaiGoさんと中田敦彦さんでした。

 メンタリストDaiGoさんの特徴は「リサーチ・考証をしっかり取った断定系」です。

 そして中田敦彦さんの特徴は「メインの書籍を用いた主観的読み聞かせ」です。これも断定系に近いと考えられます。

 僕がやろうとしていることは、一見して難しい話を噛み砕いて話しているので上記のお二方に近いと感じる方もいるかもしれませんが、『シコウノラボ』の目的は「疑問を共有して思考の実験を広範囲で行うこと」そして「思考を巡らせることを苦痛ではなく楽しみに変えること」

 僕ができることは、リサーチしたり勉強したりして断定系で伝えることではなく、僕はこんなこと考えてるけどみんなはどう?って見せることだと思ったのです。

 それが、鈴木Dの言った「解答の共有ではなく疑問の共有」なんじゃないかなと思います。

 疑問を投げかけるだけでなく、考えて一旦の答えに近づくところを見せる。

 そんなコンテンツがあってもいいんじゃないかなと。

 たどりかない話、というものはその時には役に立たなかったり関係なかったりしても、ものすごい角度から自分の悩みを解決してくれたりすることってあると思います。もちろん、その時なりの結論があってもいいんですが、結論にたどりつかなくてもいい。

 なんだかわからないけど、いろんなことがいろんなことにつながっている気がします。

 そうしてみんなで「疑問の共有」ができれば、少しずつ何かが変わるかもしれません。

【自分には何ができるのか】〜自分のためを認めると他人のためがわかる〜

 元々僕は考えることが好きでした。

 中学生になってからその傾向はどんどん強くなり、最終的に大学は哲学を専攻していました。

 その後も思考を止めることはなく、演劇の世界にのめり込んでいったわけですが、現在と過去では明らかに違うところがあります。

 それは「他者」への意識です。
 過去の思考は、自分主体のものが多かったように感じます。しかし、働き始め、演劇やイベントを主催し、店を経営し、結婚をしていくうちに感じたことがありました。

 自分のために動いたことが結果、それが直接他人のためになることはあっても、他人のためだと思って動いたことが直接的に自分のためになることは少ない、ということです。

 「俺はこれをやりたいからやるんだ」と腹を括ってやったことが評価されたり、感謝されることは多く、人の顔を伺って行った行動は「そんなの頼んでない」などと逆にいわゆる「大きなお世話」になることが多かったのです。

 果たして「他人のため」とはなんなのか。それが、「自分のため」を意識した時に初めて少しだけわかったような気がします(完全に理解したわけではないと思いますが)。

 ということで、僕はこの『シコウノラボ』を自分のために始めることにしました。

 この思考実験を、どのように使うのかは皆さん次第です。

 重ねて言いますが、僕の考え、結論が絶対的に正しいとは思いません。僕は皆さんにも同じように、思考の実験を重ねてみて欲しいのです。

次回予告

 というわけで今回の『シコウノラボ』では三つのテーマを掲げて一つのことについて掘り下げていきました。

 今回のテーマに関してはおそらくまだまだ掘り下げる部分がありますので長く思考実験をしていくテーマになるかと思います。皆さんはどう感じたでしょうか。

 さて、次回#2では「常識について」と「シコウノラボについて」がメインテーマになります。

 新型コロナウィルスの影響でより顕著になってきた「常識」の変換期。

 皆さんはどう感じているでしょうか?

 それでは、お楽しみに。

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